全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
関連するめっけブック
紹介スポット
- 1088件南海道地震津波史碑(昭和南海地震)
「お母ちゃん、行けんもん」で始まる碑。その言葉は、昭和21年(1946年)の昭和南海地震津波で命を落とした少女の最期の言葉でした。(石碑は語る・森)
少女の最期の言葉を伝えた石碑。この少女は幼い妹を背負い母親と逃げたものの、濡れたねんねこが重く力尽きて津波の犠牲となってしまいました。亡き骸を前に母親は言います。この子らを熱い風呂に入れてやれば生き返るんじゃないかと。(「石碑は語る」より)
「お母ちゃん、行けんもん」で始まる碑。その言葉は、昭和21年(1946年)の昭和南海地震津波で命を落とした少女の最期の言葉でした。(石碑は語る・森)
少女の最期の言葉を伝えた石碑。この少女は幼い妹を背負い母親と逃げたものの、濡れたねんねこが重く力尽きて津波の犠牲となってしまいました。亡き骸を前に母親は言います。この子らを熱い風呂に入れてやれば生き返るんじゃないかと。(「石碑は語る」より)
津波十訓(昭和南海地震)
昭和南海地震津波(1946年)の石碑。碑文は津波から逃れるための10か条の心得が刻まれています。(石碑は語る・森)
徳島の沿岸は過去、幾度もの地震津波で辛酸を舐めてきました。町では、再び悲惨な被害がないよう「津波十訓」として石碑に込めたのです。「津波は数回やってくる」「津波の来襲前に海水は必ず引くとは限らない」など、日頃の心得が10の教訓として刻まれています。(「石碑は語る」より)
徳島の沿岸は過去、幾度もの地震津波で辛酸を舐めてきました。町では、再び悲惨な被害がないよう「津波十訓」として石碑に込めたのです。「津波は数回やってくる」「津波の来襲前に海水は必ず引くとは限らない」など、日頃の心得が10の教訓として刻まれています。(「石碑は語る」より)
大岩宝永・慶長碑(宝永地震・慶長地震)
タケノコを横にしたような奇岩は宝永と慶長の地震の碑です。特に、慶長のものは、碑文が記されたものとしては四国最古とも。(石碑は語る・森)
大きな奇岩は、過去、この地を襲った宝永4年(1707年)と慶長9年(1605年)の2つの地震を伝えています。特に、慶長時代の碑は、碑文が記されたものとしては四国で最も古いものとか。碑文は津波が7度押し寄せ、その高さは十丈(約30㍍)に達し、100人が海の底に沈んだといいます。(「石碑は語る」より)
タケノコを横にしたような奇岩は宝永と慶長の地震の碑です。特に、慶長のものは、碑文が記されたものとしては四国最古とも。(石碑は語る・森)
大きな奇岩は、過去、この地を襲った宝永4年(1707年)と慶長9年(1605年)の2つの地震を伝えています。特に、慶長時代の碑は、碑文が記されたものとしては四国で最も古いものとか。碑文は津波が7度押し寄せ、その高さは十丈(約30㍍)に達し、100人が海の底に沈んだといいます。(「石碑は語る」より)
夜須観音山碑(安政南海地震)
安政元年(1854年)に発生した安政南海地震の碑。津波は幾度もこの地を襲いましたが、この山に逃れた者は無事だったそうです。(石碑は語る・森)
「夜須駅」の北西にお椀を逆さまにしたような小高い丘が見えます。夜須観音山といいますが、地元ではこの山を「命山」と呼んでいます。ここには安政元年(1854年)に発生した安政南海地震の碑があり、案内文によれば、「津波は幾度もこの地を襲ったが、この山に逃れた者は無事だった。一旦避難したら、宝物惜しさに再び家へ帰ってはならない」と、教訓を伝えています。(「石碑は語る」より)
安政元年(1854年)に発生した安政南海地震の碑。津波は幾度もこの地を襲いましたが、この山に逃れた者は無事だったそうです。(石碑は語る・森)
「夜須駅」の北西にお椀を逆さまにしたような小高い丘が見えます。夜須観音山といいますが、地元ではこの山を「命山」と呼んでいます。ここには安政元年(1854年)に発生した安政南海地震の碑があり、案内文によれば、「津波は幾度もこの地を襲ったが、この山に逃れた者は無事だった。一旦避難したら、宝物惜しさに再び家へ帰ってはならない」と、教訓を伝えています。(「石碑は語る」より)
浦戸稲荷神社石柱碑(安政南海地震)
安政元年(1854年)、土佐を襲った安政南海地震津波。桂浜に近い浦戸稲荷神社には地震で倒壊した鳥居の石碑が建てられています。(石碑は語る・森)
明治維新前夜の安政元年(1854年)、安政南海地震津波は坂本龍馬の育った土佐を襲いました。桂浜に近い浦戸稲荷神社には、この地震で倒壊した鳥居に朱入した珍しい石柱が建てられ、後世の人に地震と津波の戒めを伝えています。(「石碑は語る」より)
安政元年(1854年)、土佐を襲った安政南海地震津波。桂浜に近い浦戸稲荷神社には地震で倒壊した鳥居の石碑が建てられています。(石碑は語る・森)
明治維新前夜の安政元年(1854年)、安政南海地震津波は坂本龍馬の育った土佐を襲いました。桂浜に近い浦戸稲荷神社には、この地震で倒壊した鳥居に朱入した珍しい石柱が建てられ、後世の人に地震と津波の戒めを伝えています。(「石碑は語る」より)
宝永津浪溺死之塚(宝永地震)
僧の純信とお馬という娘の許されぬ恋物語が元となった「よさこい節」。そのお馬を祀る「お堂」の傍らに宝永地震の石碑があります。(石碑は語る・森)
“土佐の高知のはりやま橋で、坊さん、かんざし買うを見た”の歌詞で知られる「よさこい節」。「お馬堂」の横に宝永4年(1709年)の新旧2つの宝永地震碑が建てられています。碑文には津波避難の方法をよく知らず、4百余名が溺死し、その死体は筏(いかだ)を組んだようだったなど、悲惨な様子が記されています。(「石碑は語る」より)
僧の純信とお馬という娘の許されぬ恋物語が元となった「よさこい節」。そのお馬を祀る「お堂」の傍らに宝永地震の石碑があります。(石碑は語る・森)
“土佐の高知のはりやま橋で、坊さん、かんざし買うを見た”の歌詞で知られる「よさこい節」。「お馬堂」の横に宝永4年(1709年)の新旧2つの宝永地震碑が建てられています。碑文には津波避難の方法をよく知らず、4百余名が溺死し、その死体は筏(いかだ)を組んだようだったなど、悲惨な様子が記されています。(「石碑は語る」より)
志賀島復興の碑(福岡県西方沖地震)
福岡県西方沖地震(2005年)の碑。表面に「絆」と刻まれた碑は地震で崩落した岩を加工したもので、助け合いの大切さを伝えています。(石碑は語る・森)
鎌倉時代の蒙古襲来の舞台ともなった志賀島。平成17年(2005年)には海底の断層による福岡県西方沖地震が発生しました。碑の表面には大きく「絆」と刻まれています。島の形が変わるほどの被害の中で、人々は皆で声を掛け合い、助け合って乗り越えたことが記されています。(「石碑は語る」より)
福岡県西方沖地震(2005年)の碑。表面に「絆」と刻まれた碑は地震で崩落した岩を加工したもので、助け合いの大切さを伝えています。(石碑は語る・森)
鎌倉時代の蒙古襲来の舞台ともなった志賀島。平成17年(2005年)には海底の断層による福岡県西方沖地震が発生しました。碑の表面には大きく「絆」と刻まれています。島の形が変わるほどの被害の中で、人々は皆で声を掛け合い、助け合って乗り越えたことが記されています。(「石碑は語る」より)
明和大津波遭難者慰霊之塔(八重山地震)
古文書に伝わる八重山地震(1771年)の大津波は28丈(約85㍍)。石碑はどのような地震にも倒れないというタコーラサ石近くの丘にあります。(石碑は語る・森)
かつて、石垣島に28丈(約85㍍)の津波が押し寄せたといいます。明和8年(1771年)の八重山地震ですが、実際の遡上高は30㍍ほどではないかと推測されています。ともあれ、多くの村を全滅させ、島の人口の半分近くの命を奪ったことには変わりありません。また、島の南の宮良湾には約2千年前の津波で運ばれてきたと推測される、高さ約6.5㍍、2階建ての住宅ほどの巨大な津波石も残っています。(「石碑は語る」より)
古文書に伝わる八重山地震(1771年)の大津波は28丈(約85㍍)。石碑はどのような地震にも倒れないというタコーラサ石近くの丘にあります。(石碑は語る・森)
かつて、石垣島に28丈(約85㍍)の津波が押し寄せたといいます。明和8年(1771年)の八重山地震ですが、実際の遡上高は30㍍ほどではないかと推測されています。ともあれ、多くの村を全滅させ、島の人口の半分近くの命を奪ったことには変わりありません。また、島の南の宮良湾には約2千年前の津波で運ばれてきたと推測される、高さ約6.5㍍、2階建ての住宅ほどの巨大な津波石も残っています。(「石碑は語る」より)