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みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜 - メイン画像

みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

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2021/6 作成2021/11/11 最終更新

みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜 - メイン画像
1088
2021/6 作成2021/11/11 最終更新

全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。

紹介スポット

- 1088件

大海嘯訓令碑(昭和三陸地震)

昭和8年(1933年)、東北地方沿岸を襲った昭和三陸地震津波の碑です。石碑には津波避難の心得が記されています。(石碑は語る・森)

別名「津波田老」との異名を持つ田老。昭和8年(1933年)に発生した昭和三陸地震では6㍍の津波により548名の犠牲者を出しました。碑文には「津波に襲われたら高所へ逃げろ」「遠くへ逃げては津波に追い付かれる」「常に近くの高い所を用意しておけ」といった心得が記されています。東日本大震災では田老のシンボルともいえる防潮堤「田老の万里の長城」が津波で跡形もなく破壊され、多くの犠牲者を出しました。(「石碑は語る」より)

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大海嘯訓令碑(昭和三陸地震) - トップ画像
大海嘯訓令碑(昭和三陸地震)岩手県宮古市田老字館が森155-2

昭和8年(1933年)、東北地方沿岸を襲った昭和三陸地震津波の碑です。石碑には津波避難の心得が記されています。(石碑は語る・森)

別名「津波田老」との異名を持つ田老。昭和8年(1933年)に発生した昭和三陸地震では6㍍の津波により548名の犠牲者を出しました。碑文には「津波に襲われたら高所へ逃げろ」「遠くへ逃げては津波に追い付かれる」「常に近くの高い所を用意しておけ」といった心得が記されています。東日本大震災では田老のシンボルともいえる防潮堤「田老の万里の長城」が津波で跡形もなく破壊され、多くの犠牲者を出しました。(「石碑は語る」より)

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大津浪記念碑(明治三陸地震・昭和三陸地震)

明治三陸地震と昭和三陸地震で大きな被害が出た姉吉地区。悲惨な津波から住民を守るために、石碑より下に家を建てるなと諭しています。(石碑は語る・森)

「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と記された石碑。姉吉地区は明治三陸地震津波や昭和三陸地震の津波で、村が壊滅するほど大きな被害を受けました。多くの犠牲者が出たことで、高台への移転が進められた結果、東日本大震災では高さ40㍍ほどの津波が遡上したものの、この石碑を超えることはありませんでした。(「石碑は語る」より)

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大津浪記念碑(明治三陸地震・昭和三陸地震) - トップ画像
大津浪記念碑(明治三陸地震・昭和三陸地震)岩手県宮古市重茂姉吉

明治三陸地震と昭和三陸地震で大きな被害が出た姉吉地区。悲惨な津波から住民を守るために、石碑より下に家を建てるなと諭しています。(石碑は語る・森)

「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と記された石碑。姉吉地区は明治三陸地震津波や昭和三陸地震の津波で、村が壊滅するほど大きな被害を受けました。多くの犠牲者が出たことで、高台への移転が進められた結果、東日本大震災では高さ40㍍ほどの津波が遡上したものの、この石碑を超えることはありませんでした。(「石碑は語る」より)

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津波記憶石「二千十一」(東日本大震災)

東日本大震災で大津波が押し寄せた根浜海岸の碑です。石碑には津波から命を守る東北地方の言い伝え「てんでんこで逃げよ」と刻まれています。(石碑は語る・森)

釜石市の根浜海岸に建てられた東日本大震災の石碑。碑文には震災が起きた年の「二千十一」の文字が大きく刻まれ、「ともかく上へ逃げよ。てんでんこで逃げよ。自分を助けよ。この地まで津波がきたこと そして、裏山へ逃げ 多くの人が助かったことを後世に伝えてほしい」とあります。東日本大震災では、この石碑の10㍍上まで津波が来ました。津波から逃れるために私たちができること。それは何も欲張らずにただひたすら生き延びること。津波では生きたか、死んだかの二つに一つしかないのです。(「石碑は語る」より)

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津波記憶石「二千十一」(東日本大震災) - トップ画像
津波記憶石「二千十一」(東日本大震災)岩手県釜石市鵜住居町第20地割93-1宝来館前

東日本大震災で大津波が押し寄せた根浜海岸の碑です。石碑には津波から命を守る東北地方の言い伝え「てんでんこで逃げよ」と刻まれています。(石碑は語る・森)

釜石市の根浜海岸に建てられた東日本大震災の石碑。碑文には震災が起きた年の「二千十一」の文字が大きく刻まれ、「ともかく上へ逃げよ。てんでんこで逃げよ。自分を助けよ。この地まで津波がきたこと そして、裏山へ逃げ 多くの人が助かったことを後世に伝えてほしい」とあります。東日本大震災では、この石碑の10㍍上まで津波が来ました。津波から逃れるために私たちができること。それは何も欲張らずにただひたすら生き延びること。津波では生きたか、死んだかの二つに一つしかないのです。(「石碑は語る」より)

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伝えつなぐ大津波の碑(東日本大震災)

唐丹(とうに)港を望む高台に建てられた東日本大震災の石碑です。5柱の石碑は小中学生など95人が熱いメッセージを刻んでいます。(石碑は語る・森)

2011年の東日本大震災では、想定を超えた津波によって多数の死者・行方不明者が出ました。その原因の一つが避難の遅れ。震災後、建てられた5柱の石碑には小中学生など95人のメッセージが刻まれ、「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて(中2)」「こんな辛い思いをもうしたくない。だから、次の世代、また次の世代に伝えていく(小6)」など、子どもならではの素直な思いが綴られています。(「石碑は語る」より)

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伝えつなぐ大津波の碑(東日本大震災) - トップ画像
伝えつなぐ大津波の碑(東日本大震災)岩手県釜石市唐丹本郷

唐丹(とうに)港を望む高台に建てられた東日本大震災の石碑です。5柱の石碑は小中学生など95人が熱いメッセージを刻んでいます。(石碑は語る・森)

2011年の東日本大震災では、想定を超えた津波によって多数の死者・行方不明者が出ました。その原因の一つが避難の遅れ。震災後、建てられた5柱の石碑には小中学生など95人のメッセージが刻まれ、「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて(中2)」「こんな辛い思いをもうしたくない。だから、次の世代、また次の世代に伝えていく(小6)」など、子どもならではの素直な思いが綴られています。(「石碑は語る」より)

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明治三陸大津波伝承碑(明治三陸地震)

明治三陸地震(1896年)では津波遡上高38.2㍍に達しました。碑文は「その屍たるや道路に満ち…」と生々しい惨状を伝えています。(石碑は語る・森)

その昔、綾織りの上手な娘がいたことから名付けられたという「綾里」。東日本大震災の前までは、本州で最も高い津波遡上高の38.2㍍の記録がありました。碑文は「その屍(しかばね)たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず…親の屍にすがりて悲しむものあり、子の骸(むくろ)を抱き慟哭するものあり…頭足、所を異にするに至りては惨のもっとも惨たるものなり」と生々しい状況を伝えています。(「石碑は語る」より)

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明治三陸大津波伝承碑(明治三陸地震) - トップ画像
明治三陸大津波伝承碑(明治三陸地震)岩手県大船渡市三陸町綾里

明治三陸地震(1896年)では津波遡上高38.2㍍に達しました。碑文は「その屍たるや道路に満ち…」と生々しい惨状を伝えています。(石碑は語る・森)

その昔、綾織りの上手な娘がいたことから名付けられたという「綾里」。東日本大震災の前までは、本州で最も高い津波遡上高の38.2㍍の記録がありました。碑文は「その屍(しかばね)たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず…親の屍にすがりて悲しむものあり、子の骸(むくろ)を抱き慟哭するものあり…頭足、所を異にするに至りては惨のもっとも惨たるものなり」と生々しい状況を伝えています。(「石碑は語る」より)

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合川南小学校児童地震津波殉難の碑(日本海中部地震)

昭和58年(1983年)、秋田県の男鹿半島海岸に4㍍を超える津波が襲来。お弁当を食べていた子どもたちに津波の魔の手が迫ります。(石碑は語る・森)

紺碧の海と柔らかい春の潮風の中、社会科見学で訪れた子どもたちは楽しいお弁当の時間を迎えます。その時、男鹿半島加茂青砂の海岸に日本海中部地震の大きな津波が押し寄せたのです。子どもたちは逃げる間もなく次々とのみ込まれていきます。その様子を見た村人は、必死に助けようとするのですが…。(「石碑は語る」より)

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合川南小学校児童地震津波殉難の碑(日本海中部地震) - トップ画像
合川南小学校児童地震津波殉難の碑(日本海中部地震)秋田県男鹿市戸賀加茂青砂山道添70

昭和58年(1983年)、秋田県の男鹿半島海岸に4㍍を超える津波が襲来。お弁当を食べていた子どもたちに津波の魔の手が迫ります。(石碑は語る・森)

紺碧の海と柔らかい春の潮風の中、社会科見学で訪れた子どもたちは楽しいお弁当の時間を迎えます。その時、男鹿半島加茂青砂の海岸に日本海中部地震の大きな津波が押し寄せたのです。子どもたちは逃げる間もなく次々とのみ込まれていきます。その様子を見た村人は、必死に助けようとするのですが…。(「石碑は語る」より)

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九十九島の碑(象潟地震)

「奥の細道」最北の地として知られる象潟。文化元年(1804年)の地震で松島と並び称された景勝地が一夜にして陸に変わってしまいました。(石碑は語る・森)

その昔、この象潟は海に浮かぶ島々が宮城県松島と並び称される景勝地でした。しかし、文化元年(1804年)、景色が一変。マグニチュード7.1の象潟地震が海を隆起させ、一夜にして陸に変えてしまったのです。蚶満寺の石碑には九十九島の美しい情景や文人墨客が訪れた歴史とともに地震の状況が記されています。今では水田のあちらこちらに浮かぶ島が昔の情景を偲ばせます。(「石碑は語る」より)

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九十九島の碑(象潟地震) - トップ画像
九十九島の碑(象潟地震)秋田県にかほ市象潟町象潟島 蚶満寺内

「奥の細道」最北の地として知られる象潟。文化元年(1804年)の地震で松島と並び称された景勝地が一夜にして陸に変わってしまいました。(石碑は語る・森)

その昔、この象潟は海に浮かぶ島々が宮城県松島と並び称される景勝地でした。しかし、文化元年(1804年)、景色が一変。マグニチュード7.1の象潟地震が海を隆起させ、一夜にして陸に変えてしまったのです。蚶満寺の石碑には九十九島の美しい情景や文人墨客が訪れた歴史とともに地震の状況が記されています。今では水田のあちらこちらに浮かぶ島が昔の情景を偲ばせます。(「石碑は語る」より)

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子まもりの母子像(東日本大震災)

巨大な津波で児童74名と教職員10名が亡くなった旧大川小学校。震災後、この地に優しい母子像が建立されました。(石碑は語る・森)

追波湾から4㌔ほど上流の石巻市の旧大川小学校。ここで悲劇が起こりました。津波は北上川を遡上し、子どもたちの待機していた校庭へと流れ込んだのです。津波は2階建ての校舎を越え、コンクリート製の外廊下も飴のように曲げて砕きました。東日本大震災後に建てられた「子まもり」の母子像。その優しいまなざしだけが、唯一の救いでした。(「石碑は語る」より)

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子まもりの母子像(東日本大震災) - トップ画像
子まもりの母子像(東日本大震災)宮城県石巻市釜谷山根1

巨大な津波で児童74名と教職員10名が亡くなった旧大川小学校。震災後、この地に優しい母子像が建立されました。(石碑は語る・森)

追波湾から4㌔ほど上流の石巻市の旧大川小学校。ここで悲劇が起こりました。津波は北上川を遡上し、子どもたちの待機していた校庭へと流れ込んだのです。津波は2階建ての校舎を越え、コンクリート製の外廊下も飴のように曲げて砕きました。東日本大震災後に建てられた「子まもり」の母子像。その優しいまなざしだけが、唯一の救いでした。(「石碑は語る」より)

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チリ地震津波碑(チリ地震)

昭和35年(1960年)、M9.5という超巨大地震がチリで発生。津波は太平洋の反対側から海を越えてこの沿岸に襲来したのです。(石碑は語る・森)

昭和35年(1960年)、世界最大級の地震がチリで発生しました。津波は太平洋を越え、20時間以上かけて日本各地に襲来。場所によっては6㍍に達した所もありました。石巻市の日和山公園には「チリ地震津波碑」が設置され、碑文は津波の恐ろしさと三陸一帯に住む者の心構えを伝えています。(「石碑は語る」より)

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チリ地震津波碑(チリ地震) - トップ画像
チリ地震津波碑(チリ地震)宮城県石巻市日和が丘2日和山公園内

昭和35年(1960年)、M9.5という超巨大地震がチリで発生。津波は太平洋の反対側から海を越えてこの沿岸に襲来したのです。(石碑は語る・森)

昭和35年(1960年)、世界最大級の地震がチリで発生しました。津波は太平洋を越え、20時間以上かけて日本各地に襲来。場所によっては6㍍に達した所もありました。石巻市の日和山公園には「チリ地震津波碑」が設置され、碑文は津波の恐ろしさと三陸一帯に住む者の心構えを伝えています。(「石碑は語る」より)

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宮戸島の石碑(貞観地震?)

この石碑、貞観地震(869年)のものではないかという説も。島では千年前の教訓が受け継がれ、東日本大震災でも多くの島民が難を逃れています。(石碑は語る・森)

東日本大震災で巨大な津波にさらされた奥松島の宮戸島。ここには西暦869年に東北地方を襲った貞観地震の時のものではないかと伝わる石碑が残っています。古びて小さな石で、石碑とは気付かず通り過ぎてしまうほど。表面には何か文字のようなものも…。実際に建てられた年代は不明だそうですが、島では千年前の地震の教訓が脈々と受け継がれ、東日本大震災でもほぼ全員が難を逃れたそうです。(「石碑は語る」より)

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宮戸島の石碑(貞観地震?) - トップ画像
宮戸島の石碑(貞観地震?)宮城県東松島市宮戸二ツ橋58

この石碑、貞観地震(869年)のものではないかという説も。島では千年前の教訓が受け継がれ、東日本大震災でも多くの島民が難を逃れています。(石碑は語る・森)

東日本大震災で巨大な津波にさらされた奥松島の宮戸島。ここには西暦869年に東北地方を襲った貞観地震の時のものではないかと伝わる石碑が残っています。古びて小さな石で、石碑とは気付かず通り過ぎてしまうほど。表面には何か文字のようなものも…。実際に建てられた年代は不明だそうですが、島では千年前の地震の教訓が脈々と受け継がれ、東日本大震災でもほぼ全員が難を逃れたそうです。(「石碑は語る」より)

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震嘯記念碑(昭和三陸地震)

昭和8年(1933年)の昭和三陸地震の碑です。碑文には、不気味な海鳴りとともに津波が押し寄せたことが記されています。(石碑は語る・森)

門構えに水の字をあてて閖上(ゆりあげ)と読みます。ここに昭和8年(1933年)の昭和三陸地震津波の石碑が残っています。「昭和八年三月三日午前二時三十分突如強震アリ」で始まる碑文には、地震が収まった約40分後、海鳴りとともに津波が襲来。漁船が畑に押し上げられたことなどが記されています。平時からの用心、怠るべからず。(「石碑は語る」より)

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震嘯記念碑(昭和三陸地震) - トップ画像
震嘯記念碑(昭和三陸地震)宮城県名取市閖上4-19

昭和8年(1933年)の昭和三陸地震の碑です。碑文には、不気味な海鳴りとともに津波が押し寄せたことが記されています。(石碑は語る・森)

門構えに水の字をあてて閖上(ゆりあげ)と読みます。ここに昭和8年(1933年)の昭和三陸地震津波の石碑が残っています。「昭和八年三月三日午前二時三十分突如強震アリ」で始まる碑文には、地震が収まった約40分後、海鳴りとともに津波が襲来。漁船が畑に押し上げられたことなどが記されています。平時からの用心、怠るべからず。(「石碑は語る」より)

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天保の大津波墓碑(庄内沖地震)

江戸時代の天保4年(1833年)冬に発生した地震を伝える碑。津波は高さ3丈(約9㍍)に達し、沿岸の村をのみ込んでいきました。(石碑は語る・森)

江戸時代の天保4年(1833年)の冬に発生した庄内沖地震の碑。古文書によれば、この地震で家は潰れ、田や道筋は裂けて水が噴き出し、新潟辺りでも津波が押し寄せたといいます。堅苔沢での津波は高さ3丈(約9㍍)に達し、沿岸の村と人々をのみ込んでいきました。古い碑の横には、東日本大震災を機に地震津波の恐ろしさを伝えるために新たな碑が建立されました。(「石碑は語る」より)

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天保の大津波墓碑(庄内沖地震) - トップ画像
天保の大津波墓碑(庄内沖地震)山形県鶴岡市堅苔沢字淵之ノ上

江戸時代の天保4年(1833年)冬に発生した地震を伝える碑。津波は高さ3丈(約9㍍)に達し、沿岸の村をのみ込んでいきました。(石碑は語る・森)

江戸時代の天保4年(1833年)の冬に発生した庄内沖地震の碑。古文書によれば、この地震で家は潰れ、田や道筋は裂けて水が噴き出し、新潟辺りでも津波が押し寄せたといいます。堅苔沢での津波は高さ3丈(約9㍍)に達し、沿岸の村と人々をのみ込んでいきました。古い碑の横には、東日本大震災を機に地震津波の恐ろしさを伝えるために新たな碑が建立されました。(「石碑は語る」より)

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銚子千人塚(慶長の大津波)

昔から海の難所として知られてきた銚子。慶長19年(1614年)、漁に出た彼らを大津波が襲いました。(石碑は語る・森)

「阿波の鳴戸か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」と、昔から海の難所と言われてきた銚子。河口付近では荒れた波が立ちやすく、熟練の漁師たちを悩ませてきました。慶長19年(1614年)、対岸の鹿島灘へ漁に出た彼らを大津波が襲ったのです。一説には、相模や紀伊にかけての地震による津波ともいわれ、1000人に及ぶ被害が出たと伝えられています。小高い丘の頂には「海難漁民慰霊塔」が建っています。(「石碑は語る」より)

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銚子千人塚(慶長の大津波) - トップ画像
銚子千人塚(慶長の大津波)千葉県銚子市川口町2-6426-3

昔から海の難所として知られてきた銚子。慶長19年(1614年)、漁に出た彼らを大津波が襲いました。(石碑は語る・森)

「阿波の鳴戸か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」と、昔から海の難所と言われてきた銚子。河口付近では荒れた波が立ちやすく、熟練の漁師たちを悩ませてきました。慶長19年(1614年)、対岸の鹿島灘へ漁に出た彼らを大津波が襲ったのです。一説には、相模や紀伊にかけての地震による津波ともいわれ、1000人に及ぶ被害が出たと伝えられています。小高い丘の頂には「海難漁民慰霊塔」が建っています。(「石碑は語る」より)

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元禄の大津波供養碑(元禄地震)

雷鳴のような地鳴りと共に発生した元禄地震(1703年)。房総半島から神奈川県の太平洋沿岸に大津波が襲来!(石碑は語る・森)

本興寺門前横に残る元禄地震の碑。この地震は当時の相模から武蔵、安房、上総までを直撃、甚大な被害をもたらしました。元禄16年(1703年)の真冬のことです。「雷の如く」大地震が起こり、この一松村では津波によって死者384名に及んだと伝えています。また、もう一つの石碑には子どもの戒名も。暗く凍るような水の中で息絶えた子がいたのでしょう。(「石碑は語る」より)

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元禄の大津波供養碑(元禄地震) - トップ画像
元禄の大津波供養碑(元禄地震)千葉県長生村一松丙301

雷鳴のような地鳴りと共に発生した元禄地震(1703年)。房総半島から神奈川県の太平洋沿岸に大津波が襲来!(石碑は語る・森)

本興寺門前横に残る元禄地震の碑。この地震は当時の相模から武蔵、安房、上総までを直撃、甚大な被害をもたらしました。元禄16年(1703年)の真冬のことです。「雷の如く」大地震が起こり、この一松村では津波によって死者384名に及んだと伝えています。また、もう一つの石碑には子どもの戒名も。暗く凍るような水の中で息絶えた子がいたのでしょう。(「石碑は語る」より)

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安政大地震供養塔(安政江戸地震)

鼠小僧次郎吉の墓がある回向院にある石碑。安政江戸地震(1855年)では、下町を中心に大勢の人が亡くなったといわれます。(石碑は語る・森)

「盗みはすれど非道はせず」。ご存知、江戸の怪盗・鼠小僧次郎吉の墓がある両国の回向院。ここには安政2年(1855年)に江戸の町を襲った安政江戸地震の横死者を弔った供養塔が残ります。江戸っ子たちの肝を潰したこの地震。下町を中心に住家の倒壊とその後の火災により町人や武士を含め、7000人から1万人が亡くなったといわれます。(「石碑は語る」より)

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安政大地震供養塔(安政江戸地震) - トップ画像
安政大地震供養塔(安政江戸地震)東京都墨田区両国2-8-10回向院内

鼠小僧次郎吉の墓がある回向院にある石碑。安政江戸地震(1855年)では、下町を中心に大勢の人が亡くなったといわれます。(石碑は語る・森)

「盗みはすれど非道はせず」。ご存知、江戸の怪盗・鼠小僧次郎吉の墓がある両国の回向院。ここには安政2年(1855年)に江戸の町を襲った安政江戸地震の横死者を弔った供養塔が残ります。江戸っ子たちの肝を潰したこの地震。下町を中心に住家の倒壊とその後の火災により町人や武士を含め、7000人から1万人が亡くなったといわれます。(「石碑は語る」より)

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関東大震災記念塔(関東大震災)

数寄屋橋公園にある関東大震災(1923年)の碑は彫塑家の北村西望氏の作。燈明を手にした力強い立像が地震への備えを説いています。(石碑は語る・森)

人気の宝くじ売り場がある銀座数寄屋橋公園。その一角に、今では人知れず関東大震災の記念塔が建っています。関東大震災では銀座も折からの風にあおられて、猛火に包まれました。碑は関東大震災後10年目に建てられたもので、「不意の地震に不断の用意」と記されています。(「石碑は語る」より)

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関東大震災記念塔(関東大震災) - トップ画像
関東大震災記念塔(関東大震災)東京都中央区銀座4-1-2 数寄屋橋公園内

数寄屋橋公園にある関東大震災(1923年)の碑は彫塑家の北村西望氏の作。燈明を手にした力強い立像が地震への備えを説いています。(石碑は語る・森)

人気の宝くじ売り場がある銀座数寄屋橋公園。その一角に、今では人知れず関東大震災の記念塔が建っています。関東大震災では銀座も折からの風にあおられて、猛火に包まれました。碑は関東大震災後10年目に建てられたもので、「不意の地震に不断の用意」と記されています。(「石碑は語る」より)

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防火守護地の碑(関東大震災)

関東大震災(1923年)で奇跡!一面焼け野原の中で、ポツンと焼けなかった空白地帯がありました。そのわけとは?(石碑は語る・森)

大正12年(1923年)に起きた関東大震災で猛火に包まれた下町。まさに四面楚”火”ともいえる焼け野原の中で、この一角だけは焼けませんでした。なぜ、ここだけが地獄の劫火から逃れられたのか…。それは、住民たちの命を懸けた劫火との闘いがあったからでした。小説家の吉村昭はその一角を「広大な砂漠の中に出現したオアシスのようだ」と表現しました。(「石碑は語る」より)

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防火守護地の碑(関東大震災) - トップ画像
防火守護地の碑(関東大震災)東京都千代田区神田和泉町 和泉公園

関東大震災(1923年)で奇跡!一面焼け野原の中で、ポツンと焼けなかった空白地帯がありました。そのわけとは?(石碑は語る・森)

大正12年(1923年)に起きた関東大震災で猛火に包まれた下町。まさに四面楚”火”ともいえる焼け野原の中で、この一角だけは焼けませんでした。なぜ、ここだけが地獄の劫火から逃れられたのか…。それは、住民たちの命を懸けた劫火との闘いがあったからでした。小説家の吉村昭はその一角を「広大な砂漠の中に出現したオアシスのようだ」と表現しました。(「石碑は語る」より)

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震災避難記念碑(関東大震災)

関東大震災(1923年)で大川(隅田川)に逃げた人々。すでに対岸も火の壁。進むも地獄、戻るも地獄。その時、官吏のある決断が人々を救います。(石碑は語る・森)

大正12年(1923年)9月1日、午前11時58分。東京の市街地は強い揺れに襲われました。ちょうど昼時と重なって火災が発生。火は強い風にあおられて瞬く間に広がっていったのです。火から逃れようと、多くの人々は大川(隅田川)の新大橋に向かいましたが、時すでに遅し。対岸の両国も火の壁。絶体絶命の人々を救うために、ある官吏が命じた一言とは…。(「石碑は語る」より)

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震災避難記念碑(関東大震災) - トップ画像
震災避難記念碑(関東大震災)東京都中央区日本橋浜町2-58 新大橋橋詰

関東大震災(1923年)で大川(隅田川)に逃げた人々。すでに対岸も火の壁。進むも地獄、戻るも地獄。その時、官吏のある決断が人々を救います。(石碑は語る・森)

大正12年(1923年)9月1日、午前11時58分。東京の市街地は強い揺れに襲われました。ちょうど昼時と重なって火災が発生。火は強い風にあおられて瞬く間に広がっていったのです。火から逃れようと、多くの人々は大川(隅田川)の新大橋に向かいましたが、時すでに遅し。対岸の両国も火の壁。絶体絶命の人々を救うために、ある官吏が命じた一言とは…。(「石碑は語る」より)

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鎌倉大仏

関東大震災の激しい揺れは、鎌倉時代に造立された国宝・鎌倉大仏をも容赦なく襲いました。激しい揺れに驚いたのか、大仏は約30㌢も前に動いたのです。(石碑は語る・森)

関東大震災の激しい揺れで121トンある大仏が約30㌢も動きました。昭和30年代に入り、大仏の永久保存を目的に大地震時には大仏が滑るように底部にステンレス板が敷かれ、日本の文化財としては初の免震構造が施されました。また、北鎌倉の建長寺にある「震災追悼供養碑」には、特別保護建造物の仏殿や唐門、書院、舎利殿、半増坊本殿や、国宝北条時頼木像などが被害を受けたことが記されています。(「石碑は語る」より)

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鎌倉大仏 - トップ画像
鎌倉大仏神奈川県鎌倉市長谷4丁目2−28

関東大震災の激しい揺れは、鎌倉時代に造立された国宝・鎌倉大仏をも容赦なく襲いました。激しい揺れに驚いたのか、大仏は約30㌢も前に動いたのです。(石碑は語る・森)

関東大震災の激しい揺れで121トンある大仏が約30㌢も動きました。昭和30年代に入り、大仏の永久保存を目的に大地震時には大仏が滑るように底部にステンレス板が敷かれ、日本の文化財としては初の免震構造が施されました。また、北鎌倉の建長寺にある「震災追悼供養碑」には、特別保護建造物の仏殿や唐門、書院、舎利殿、半増坊本殿や、国宝北条時頼木像などが被害を受けたことが記されています。(「石碑は語る」より)

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桃山の碑(新潟地震)

昭和39年(1964年)の新潟地震では石油製油所で火災が発生。太陽の光さえも遮るほどの黒煙から子どもたちを守り抜いた教師たちがいました。(石碑は語る・森)

昭和39年(1964年)、東京オリンピックの4カ月前、新潟県を中心に突如発生した新潟地震。頑丈なコンクリート製の建物が倒壊。石油製油所では火災が発生しました。タンクから立ち上る黒煙は太陽の光さえも遮るほど。その黒い悪魔から逃れ、子どもたちを守り抜いた教師がいました…。石碑は校庭内にあるため、見学の際は桃山小学校の許可をお取りください。(「石碑は語る」より)

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桃山の碑(新潟地震) - トップ画像
桃山の碑(新潟地震)新潟県新潟市東区桃山町2-204新潟市立桃山小学校地内

昭和39年(1964年)の新潟地震では石油製油所で火災が発生。太陽の光さえも遮るほどの黒煙から子どもたちを守り抜いた教師たちがいました。(石碑は語る・森)

昭和39年(1964年)、東京オリンピックの4カ月前、新潟県を中心に突如発生した新潟地震。頑丈なコンクリート製の建物が倒壊。石油製油所では火災が発生しました。タンクから立ち上る黒煙は太陽の光さえも遮るほど。その黒い悪魔から逃れ、子どもたちを守り抜いた教師がいました…。石碑は校庭内にあるため、見学の際は桃山小学校の許可をお取りください。(「石碑は語る」より)

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