実は、街なかには隠れた歴史的名所がたくさん!旅先だけでなく、近所の散歩でも意外な名所が見つかるかも?!歴史の勉強や小学生の自由研究にもおすすめです。紹介されていないスポットを見つけたら、みんなで登録して共有しよう!
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紹介スポット
- 8106件由比若宮は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建した社。 1081年(永保元年)2月には、頼義の子義家が社殿を修復している。 1180年(治承4年)10月7日、鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を遥拝。 10月12日には、由比郷から小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page135moto...
由比若宮は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建した社。 1081年(永保元年)2月には、頼義の子義家が社殿を修復している。 1180年(治承4年)10月7日、鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を遥拝。 10月12日には、由比郷から小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page135moto...
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、1063年(康平6年)に、源頼朝の先祖源頼義が「源氏の氏神」である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したがその始まり(由比若宮(鶴岡若宮))。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たして鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えた。 1191年(建久2年)、火災によって焼失するが、頼朝は、若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に上宮(本宮)を新造し、今日の姿(上下両宮)となる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041hati...
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、1063年(康平6年)に、源頼朝の先祖源頼義が「源氏の氏神」である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したがその始まり(由比若宮(鶴岡若宮))。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たして鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えた。 1191年(建久2年)、火災によって焼失するが、頼朝は、若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に上宮(本宮)を新造し、今日の姿(上下両宮)となる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041hati...
もともとは京都東山にあった豊國神社ですが、豊臣家滅亡後に徳川家康がその地を没収したため、社は衰退の道を辿ったそうです。その後明治になって明治天皇が大阪へ行幸された際、多大なる功労を残した豊臣秀吉公を大阪の地においても奉祀するよう仰せになったため、京都に本社を再建し、大阪には現在の中央公会堂の地点に別社を創立、その後別社がこの地に移されたそうです。京都にあるはずなのに…という疑問が解消されました。 osaka-hokokujinja.org kyoto-16sha.jp/toyokunijinja
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もともとは京都東山にあった豊國神社ですが、豊臣家滅亡後に徳川家康がその地を没収したため、社は衰退の道を辿ったそうです。その後明治になって明治天皇が大阪へ行幸された際、多大なる功労を残した豊臣秀吉公を大阪の地においても奉祀するよう仰せになったため、京都に本社を再建し、大阪には現在の中央公会堂の地点に別社を創立、その後別社がこの地に移されたそうです。京都にあるはずなのに…という疑問が解消されました。 osaka-hokokujinja.org kyoto-16sha.jp/toyokunijinja
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巨石でできた石垣と土塀でできている大手口枡形は防衛がその役割。その上の櫓は現存する多聞櫓の中で最大規模だそうで、有事の時は、この隙間(写真)から槍を落として、敵兵が入ってくるのを防いでいたそうです。そしてここの巨石、すごい大きさですので、この門を通る時は必見です!
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巨石でできた石垣と土塀でできている大手口枡形は防衛がその役割。その上の櫓は現存する多聞櫓の中で最大規模だそうで、有事の時は、この隙間(写真)から槍を落として、敵兵が入ってくるのを防いでいたそうです。そしてここの巨石、すごい大きさですので、この門を通る時は必見です!
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大阪城の表玄関がこちら。ボランティアさんによると、この土橋から大手門、多聞櫓、千貫櫓の3つが画角に入るこの位置がベストショットとのこと。ずっと森ノ宮の方から大阪城に行っていたので、こちらが表玄関だということをはじめて知りました。そして大手門の瓦の一部に徳川家の家紋である三つ葉葵があるということも教えて頂きました。NPO法人大阪観光ボランティア協会の方、ご親切にありがとうございました!
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大阪城の表玄関がこちら。ボランティアさんによると、この土橋から大手門、多聞櫓、千貫櫓の3つが画角に入るこの位置がベストショットとのこと。ずっと森ノ宮の方から大阪城に行っていたので、こちらが表玄関だということをはじめて知りました。そして大手門の瓦の一部に徳川家の家紋である三つ葉葵があるということも教えて頂きました。NPO法人大阪観光ボランティア協会の方、ご親切にありがとうございました!
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聖路加国際大学の構内にあるトイスラー記念館は,もとは1933(昭和8)年に隅田川川畔の明石町19番地に建てられた聖路加国際病院の宣教師館でした。聖路加開発計画によって1989(平成元)年に解体され,1998(平成10)年に現在地に移築・復元されてトイスラー記念館となりました。 ルドルフ・B・トイスラーは,1901(明治34)年に来日したアメリカ聖公会の宣教師・医師で,その年,かつての築地外国人居留地に聖路加病院(現在の聖路加国際病院)を開院し,1920(大正9)年には附属高等看護婦学校(現,聖路加国際大学)を設立しています。 宣教師館は,アメリカ人建築家J・V・W・バーガミニィの設計による鉄筋コンクリート造一部木造の二階建て建築で,外部に柱や梁などを露出させたハーフティンバー風の外観をもつヨーロッパの山荘を思わせる瀟洒な住宅でした。移築するにあたっては,再利用可能な部材をできる限り用いて創建当時の姿を忠実に再現したとされています。
聖路加国際大学の構内にあるトイスラー記念館は,もとは1933(昭和8)年に隅田川川畔の明石町19番地に建てられた聖路加国際病院の宣教師館でした。聖路加開発計画によって1989(平成元)年に解体され,1998(平成10)年に現在地に移築・復元されてトイスラー記念館となりました。 ルドルフ・B・トイスラーは,1901(明治34)年に来日したアメリカ聖公会の宣教師・医師で,その年,かつての築地外国人居留地に聖路加病院(現在の聖路加国際病院)を開院し,1920(大正9)年には附属高等看護婦学校(現,聖路加国際大学)を設立しています。 宣教師館は,アメリカ人建築家J・V・W・バーガミニィの設計による鉄筋コンクリート造一部木造の二階建て建築で,外部に柱や梁などを露出させたハーフティンバー風の外観をもつヨーロッパの山荘を思わせる瀟洒な住宅でした。移築するにあたっては,再利用可能な部材をできる限り用いて創建当時の姿を忠実に再現したとされています。
聖路加国際病院は,1917(大正6)年に改称される以前は「聖路加病院」といいました。開院されたのは1901(明治34)年,場所はかつての築地外国人居留地37番にあたります。 ここには,もともと健康社築地病院というキリスト教系の病院があり,指紋研究で知られるヘンリー・フォールズも勤務していました。フォールズが1886(明治19)年に帰国すると病院はしだいに廃れ,1899(明治32)年に築地の外国人居留地が廃止されると病院も閉鎖されます。 その建物を買い取り,そこに新たに聖路加病院を開院したのが,アメリカ聖公会が日本に派遣した宣教師で医師のルドルフ・B・トイスラーです。病院の建物は,はじめは小さな木造家屋でしたが,その後皇室や大隈重信らの後援,三井・三菱などからの献金を受けて発展し,敷地は旧居留地のほぼ南半分を占めるまでになりました。 聖路加国際大学の旧館は,1923(大正12)年の関東大震災で病院の建物が倒壊した後,駐日アメリカ大使公邸を設計したチェコ出身の建築家アントニン・レイモンドの設計により1933(昭和8)年に再建されたものです。
聖路加国際病院は,1917(大正6)年に改称される以前は「聖路加病院」といいました。開院されたのは1901(明治34)年,場所はかつての築地外国人居留地37番にあたります。 ここには,もともと健康社築地病院というキリスト教系の病院があり,指紋研究で知られるヘンリー・フォールズも勤務していました。フォールズが1886(明治19)年に帰国すると病院はしだいに廃れ,1899(明治32)年に築地の外国人居留地が廃止されると病院も閉鎖されます。 その建物を買い取り,そこに新たに聖路加病院を開院したのが,アメリカ聖公会が日本に派遣した宣教師で医師のルドルフ・B・トイスラーです。病院の建物は,はじめは小さな木造家屋でしたが,その後皇室や大隈重信らの後援,三井・三菱などからの献金を受けて発展し,敷地は旧居留地のほぼ南半分を占めるまでになりました。 聖路加国際大学の旧館は,1923(大正12)年の関東大震災で病院の建物が倒壊した後,駐日アメリカ大使公邸を設計したチェコ出身の建築家アントニン・レイモンドの設計により1933(昭和8)年に再建されたものです。
犯罪捜査で有力な証拠となるのが現場に残された指紋です。指紋によって個人の識別が可能であることを発見し,世界に向けて初めて発表したのがイギリス人ヘンリー・フォールズです。 フォールズは,スコットランド一致長老会の医療伝道団の一員として1874(明治7)年に来日し,キリスト教布教と医療活動に従事しました。医師としてのフォールズは,楽善会訓盲院(現,筑波大学附属視覚特別支援学校(付属盲学校))を設立して視覚障碍者教育を推進したことで知られています。 大森貝塚を発見したアメリカ人動物学者モースと親交を持ったフォースは,土器にも興味を持つようになりました。そして偶然に,土器に残されていた古代人の指紋を見つけ,このことなどをきっかけに指紋の科学的な研究に取り組むようになります。その成果がイギリスの総合科学雑誌「Nature」に発表されたのが1880(明治13)年の10月,世界最初の科学的指紋法に関する論文となりました。 碑は,フォールズが1874(明治7)年から1886(明治19)年まで居住していた築地外国人居留地18号,現在の聖路加ガーデンと聖路加国際病院の間にある歩道上の植え込みの中に置かれています。
犯罪捜査で有力な証拠となるのが現場に残された指紋です。指紋によって個人の識別が可能であることを発見し,世界に向けて初めて発表したのがイギリス人ヘンリー・フォールズです。 フォールズは,スコットランド一致長老会の医療伝道団の一員として1874(明治7)年に来日し,キリスト教布教と医療活動に従事しました。医師としてのフォールズは,楽善会訓盲院(現,筑波大学附属視覚特別支援学校(付属盲学校))を設立して視覚障碍者教育を推進したことで知られています。 大森貝塚を発見したアメリカ人動物学者モースと親交を持ったフォースは,土器にも興味を持つようになりました。そして偶然に,土器に残されていた古代人の指紋を見つけ,このことなどをきっかけに指紋の科学的な研究に取り組むようになります。その成果がイギリスの総合科学雑誌「Nature」に発表されたのが1880(明治13)年の10月,世界最初の科学的指紋法に関する論文となりました。 碑は,フォールズが1874(明治7)年から1886(明治19)年まで居住していた築地外国人居留地18号,現在の聖路加ガーデンと聖路加国際病院の間にある歩道上の植え込みの中に置かれています。