マップ表示やお気に入り機能など
アプリでもっと便利に
荒尾精の墓・山田良政君碑 - トップ画像

荒尾精の墓・山田良政君碑

東京都台東区谷中5-4-7 全生庵(ぜんしょうあん)
荒尾精の墓・山田良政君碑 - マップ画像
荒尾精の墓・山田良政君碑 - トップ画像

荒尾精の墓・山田良政君碑

東京都台東区谷中5-4-7 全生庵(ぜんしょうあん)
荒尾精の墓・山田良政君碑 - マップ画像

谷中にある全生庵には,中国と関係の深い二人の人物の墓と石碑があります。 墓は,上海に「日清貿易研究所」を設立し日清間の貿易実務を担う人材の育成に尽力した荒尾精のものです。 荒尾は陸軍士官学校を卒業後,参謀本部から清国に派遣され約3年間の諜報活動にあたりましたが,帰国した翌年の1890(明治23)年に軍を辞め,日清両国の提携に基づく貿易振興を主張し「日清貿易研究所」(日中友好提携の人材育成を担った東亜同文書院に発展)を設立しました。 荒尾は,日清戦争の最中にも清国に対する領土割譲の要求に反対しています。 一方,境内にある石碑は,中華民国成立後の1913(大正2)年,孫文が来日した際に同志だった山田良政を悼んで建てられたもので,書は孫文自身のものです。 弘前出身の山田良政は上京して中国語を学び,日清戦争に陸軍の通訳として従軍しました。 戦後,日本に亡命中の孫文と出会ってその祖国への情熱や理念に感銘を受け,革命運動を支援するようになります。 1900(明治 33)年に中国広東省の恵州で孫文が蜂起するとそれに加わりましたがこの蜂起は失敗し,山田は清国の政府軍に捕らえられ殺害されました。

0
0
1