JR東北本線旧線(山線)は、廃線となって線路こそありませんが、その痕跡をたどることができます。 利府の鉄道物語に触れるニッチなコースをtsumikiがご紹介します。 ◆tsumikiでは利府町のおすすめを募集する「まち自慢コンテスト2024」を開催しました。 コンテストの詳細はこちら👀 rifu-tsumiki.jp/topics/archive...
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紹介スポット
- 10件1894年(明治27年)に利府駅が開業。加瀬村の佐々木佐太郎氏が敷地を寄贈するなど、地元の力で実現した駅です。1949年(昭和24年)頃、線路の廃止にともない利府駅存続の危機がありましたが、請願活動を行うなど住民の強い想いと行動が現在の利府を残したのでした。
C58形蒸気機関車、ED91形交流式電気機関車があって、SL公園として親しまれていました。2022年に老朽化のため撤去され、現在は記念銘板が設置されています。
旧赤沼信号場跡~赤沼字横街道付近~ 左側が県道8号線、右側が三陸自動車道路。信号場があった場所には当時停車場もあり他の線路跡と比べて広くなっています。
染殿神社は江戸時代の古文書には「蓋草(かりやす)神社」として記録が残されています。 「蓋草」とは、イネ科の多年草で染料として昔から使われていました。現在は「刈安」とも書きます。 特に赤沼周辺からとれる蓋草は品質が良かったそうで鎌倉時代の短歌などにも登場します。 染殿神社に祀られている神様で「染殿姫命」について伝承があります。 仁寿2年(西暦852年)、身分を隠して東北地方を視察に来ていた「藤原明子(ふじわらのあきらこ):当時の文徳天皇の后」が赤沼付近に来た際にその日の宿を貸してほしいと村人に頼んだそうです。 しかし、普段目にしない立派な着物を身につけて頭には宝冠を付け、妊娠中の旅の娘を村人たちは不信に思い誰も宿を貸してくれませんでした。 そのことを不憫に思った老夫婦が近くの経塚のお堂に泊まるよう教えてくれました。 明子は旅の疲れを癒す間もなく、その日の晩に出産。 その時の産着などを沼の水で洗ったところ沼が赤く染まったことから赤沼と呼ばれるようになったとの説もあります。 無事に出産を終えた明子は村人に助けられながら子育てを行いました。 2年後に都へ帰るまで村人に針仕事や染め物の技術、書道などを教えていたといいます。このことから赤沼周辺の教養がぐんと上がり、明子は里の人々から生神として讃えられることとなりました。 明子が住んでいた跡地にお堂と記念の碑を建てて、神様として祀ったことが染殿神社の始まりという説もあります。 ※利府町誌 「染殿神社に因む伝説」より
染殿神社は江戸時代の古文書には「蓋草(かりやす)神社」として記録が残されています。 「蓋草」とは、イネ科の多年草で染料として昔から使われていました。現在は「刈安」とも書きます。 特に赤沼周辺からとれる蓋草は品質が良かったそうで鎌倉時代の短歌などにも登場します。 染殿神社に祀られている神様で「染殿姫命」について伝承があります。 仁寿2年(西暦852年)、身分を隠して東北地方を視察に来ていた「藤原明子(ふじわらのあきらこ):当時の文徳天皇の后」が赤沼付近に来た際にその日の宿を貸してほしいと村人に頼んだそうです。 しかし、普段目にしない立派な着物を身につけて頭には宝冠を付け、妊娠中の旅の娘を村人たちは不信に思い誰も宿を貸してくれませんでした。 そのことを不憫に思った老夫婦が近くの経塚のお堂に泊まるよう教えてくれました。 明子は旅の疲れを癒す間もなく、その日の晩に出産。 その時の産着などを沼の水で洗ったところ沼が赤く染まったことから赤沼と呼ばれるようになったとの説もあります。 無事に出産を終えた明子は村人に助けられながら子育てを行いました。 2年後に都へ帰るまで村人に針仕事や染め物の技術、書道などを教えていたといいます。このことから赤沼周辺の教養がぐんと上がり、明子は里の人々から生神として讃えられることとなりました。 明子が住んでいた跡地にお堂と記念の碑を建てて、神様として祀ったことが染殿神社の始まりという説もあります。 ※利府町誌 「染殿神社に因む伝説」より